東海道としての宿駅であった水口にお城があったのはご存知でしょうか。
現在は、廃城となってしまったので、往時の面影はあまりないですが、二の丸の場所に水口城資料館が建てられています。
東海道としての宿駅であった水口にお城があったのはご存知でしょうか。 |
水口城跡
私たちはJR草津線貴生川駅、近江鉄道乗り換え水口城南駅を下車し4分ほど歩いたところにある水口城に行ってきました。
水口は、古くから伊勢に通じる街道の要所としてひらけ、室町時代にはすでに宿場町が形成されていました。関ヶ原の合戦後、徳川氏の直轄市となっていたこの地は東海道の宿駅に指定され、徳川家康も通行の都度利用していましたが、宿泊施設が少なく寺院や民家などに宿泊していたそうです。
そんな時に、江戸幕府3代将軍の1634(寛永11)年京都への上洛に先立ち、道中の水口に新たに宿館を築かせました。これが水口城です。築城は幕府直営で行われましたが、作事奉行には建築や作庭、あるいは茶道などで有名な小堀遠江守政一(遠州)があてられ、のべ10万人の大工が動員されました。
その後、1682年(天和2年)には石見国より加藤明友が入り、水口藩2万5千石の居城となりました。明友は賤ケ岳7本槍で聞こえた加藤義明の孫です。この城は湧水を利用した“薬研堀”や明友が命名した“碧水城”の別名があります。水口宿の製法に位置する水口城は、水堀に囲まれた本丸と管理施設である二の丸の二郭から構成されています。
本丸の周囲は石垣をめぐらし、土塀や門、矢櫓で固められていましたが、とりわけ本丸御殿は、二条城と同じような形であり、将軍家宿菅としての性格をよく示しています。
明治維新後、水口城は廃城となり公売に付され、角櫓が付近の消化に売却されたり、石垣の一部が近江鉄道の布石になったりするなど、建物や石垣の大半が処分されました。
旧本丸は学校敷地となり運動場として利用されてきましたが、昭和47年将軍家宿菅遺跡としての価値観が評価され、滋賀県の史跡に指定されたのを機会に、郷土のシンボルとしての保存整備の関心が高まったとの事です。現在は、県立水口高校の運動場として利用されています。
また、1911(平成3)年に、水口場の資料を諦観する施設として、往時の櫓の姿を模した水口城資料館が開館しました。資料館の方は遺跡としての城郭を守り、郷土のシンボルとして育てていきたいという思いがあるそうです。
この水口城資料館の建築にあたっては、近隣から保存されていた古材を集めて、建築されたそうです。
残念ながら当時の城郭はすでにないですが、お堀などはまだ残っていますので、一度訪問して、昔をしのんではいかがでしょうか。
水口城資料館について
住 所 :滋賀県甲賀市水口町本願4-80
開館時間:午前10時~午後5時
休館日 :木曜日・金曜日・年末年始
入館料 :大人100円・小中学生50円
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